2016/05/30

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#20

「アメリカは日本の消費税を許さない/岩本沙弓」より
米国は怖い、米国が悪い、特定勢力のなせる業である等々、こうしたことに偏り過ぎた議論は米国のせいにすれば丸く収まる的な発想に陥る可能性がある。
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「外圧」の部分だけがクローズアップされてしまう。悪いのは全て海外と安易に片付けてしまうことが、問題の本質であったり、問題の所在であったりすることを隠してしまうリスクが多分にあり、実はこちらの方が深刻なのではないかと考える次第である。
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オバマ大統領の広島でのスピーチ。抒情詩的であり多くの人々が感動した。
違和感を持つ人はいないだろうか。ごめんなさい。僕はただのしがないサラリーマンです。思想信条など人に語れるものなど持っていない。でも、なんだか違和感がある。
広島で米国大統領が感動的なスピーチをやった、そこに価値がある・・そうなのか?
本当にそうなのだろうか。東西冷戦に幕引きしたゴルバチョフ。彼が名演説を残したという記憶は僕にはない。
もう一人政治家の名前を出そう。小沢一郎。
近頃はまったくその名をきくことのない、力を失った「剛腕」小沢一郎。彼は無口で無表情で演説で評価をされたという記憶はない。彼が悪事をしたのかどうかは論じない(個人的にはハメられたと思っています)。ゴルバチョフの最後は確か拉致監禁されたりなんだのかんだので、失脚させられたような流れの終焉だった記憶がある。(まだ終わってしまった人ではないけれど)
確かに政治家には指導者的な意味合いも必要なのだろう。キング牧師のように。もっと簡単に言いたい。例えば、坂本龍馬が日本の未来図を示す名演説をし、その場で暗殺された・・もしもの話だけれど、薩長同盟やらなんやらの龍馬が事実上残した「実務者」としての歴史ともしも話を比較してイメージして欲しい。まぁ、そういうことだ(笑)。しかし、岩本沙弓さんが指摘する「隠れてしまう本質」とはそういうことじゃなのか。情緒に弱い。この国の流行る歌もコード進行はだいたい定型化されている。話を変えよう。
先の記事も、今回の記事も直感的NOの話をしてしまったけれど、どうやらこの国の今の現状は「NO」の物語だけでは多くの歓心を得ることは出来ない、というのが「今」らしい。それについては、次回、渋谷陽一さんの登場にて記事を書こう。

上質な物語を作ることが出来ても、その時代にそぐわなければ、勝ち目はない。そういうことです。

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