2016/06/01

宗教的儀式のように聴く音楽 その1

先日、初めてヒューマンビートボックスなるもののライブを観た。とても良かった。やはり、ある一定のレベルに達する洗練された技術・テクニックというのは人を熱狂させる為には最重要な要素なのかもしれない。当然のことなのかな。僕はどちらかといえばロックバンドは演る人間の初期衝動・エモーショナルなものに目がいくので。そのヒューマンビートボックスが最後に演った曲が僕には、とてもとても感動的で、その曲はjust the two of us。曲紹介した間際に、この曲が大好きだという金髪のお兄さんが飛び入りで歌い出すハプニングが。その若者はホントに情熱が溢れんばかりな歌で・・じっと観ていた僕は泣いてしまった(笑)。その若者に魅力を感じてしまった僕は、後日、この若者がボーカルを務めるバンドを検索してオリジナル曲を聴いてみた。ちょっと大変失礼な物言いで申し訳ないのだけれども僕にはグッとくるものがなく。(ちょっと念の為に言いますが、この若者のバンドで久しぶりに僕は踊りましたよ)やはり、just the two of usの楽曲がよかったのだろうかと。。
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僕は気に入った曲がみつかると、何度も何度も何度も相当な回数で、その曲だけをリピートで聴く。この聴き方は精神的にはよくないらしい。長い時は5時間ぐらい聴き続けたりする。それはまるで宗教的儀式のように。
先日もこのブログでちょっと触れたけれど、最近僕はコリデールという無名なシンガーの曲をリピートで聴くことがある。直感を信じるタチな僕だけれども、ナゼこの歌がいいのだろうかと客観的な視点で聴いてみたいのと、こういった名も無き今の若いミュージシャンというのは、一体、どういったもんなのかと興味もあり、結構いろんなシンガーさんやらバンドやらの歌をチェックしてみた。なるほど。。独断な物言いだけれども先述した通りだと思う。楽曲の差だ。少なくともコリデールの楽曲は僕が思わず拾ってしまう「欠片」みたいなものがちゃんと含まれている。(もちろん、これはセンスのないしがないサラリーマンの独断)
サウンドクオリティは多額の費用がかけられる産業音楽とは比較にならない。当たり前だ。しかし、聴く側は、もうそろそろAKBとかエグザイルとかシステム側の差し入れみたいな歌をわざわざ食べなくてもいいのではないだろうか。
(ファンの方々、これは侮辱ではありません。社会学的な意味合いの話です。お米は太る原因だ、なんていうトンデモ話と同じで、スルーして下さいね)
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明日、僕は村上春樹さんのイラスト展示会とコリデールのライブを観に行く。入口はあるのに出口のない村上春樹さんの初期作品。コリデールも同じだ。出口がない歌(僕は素人なので、説明は難しい。どこがどうとかではない。聴くとわかりますよ(笑))しかし、今の僕は、それが居心地よかったりする。

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