「ノート(ある日の)」より
いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。ひとりぼっちの。一人の女の子の落ちかたというものを。
一人の女の子の落ちかた。
一人の女の子の駄目になりかた。
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名前と年齢が決まってしまえば、あとはもう終わったも同然。では決してないんだ。ここから長い長い外科手術が始まる。長い長い探査が始まる。割の合わない私立探偵になる。その女の子、たった一人の、一人ぼっちの女の子の許せるもの/許せないものをリストアップしてゆく。どうでもよいこと/どうでもよくないことをリストアップしてゆく。彼女にとって痛いもの/痛くないものをマップしてゆく。地図をつくる。年表をつくる。彼女の歴史/時間をさかのぼる。
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何故かアルバート・アインシュタインという人の本を選び、そのルビ付きの本に「五、〇〇〇光年の遠くの蟹星雲から秒速三七、二〇〇マイルの速さで光はやってきます」と書いてあるのを読んでどんどん自分がうしろにじりじりと飛んでいきそうな気が、こうしているうちに自分がとり残されているような、時間においてきぼりにされているような気がして、実際木の椅子からころがり落ちてしまったということだとかを。
彼女の借りていった本ののとなりには死んでから一ヶ月たってやっと発見された作家の本が並んでいたこととか。実際彼女の借りた本はモンゴメリの『赤毛のアン』だとしても。
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彼女はとても下手糞な字でグリーンのインキでノートにこう書くのだ。下手な絵入りでね。
「良い人間になりたい」、と。
しかし本当に良い人間はそんなことは望まないのだ。
(『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』より)
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僕は自分のFacebookの追悼アカウントは娘を指名設定してある。死んだ後に僕がアップした記事や交友関係やその友人たちとのメッセージのやり取りを娘が知ったとしても、彼女がショックを受けることはないと思う。でも、このブログは・・・。
娘はとても健全な生き方をしていると思う。一般的な意味で。
彼女が中学生のときにギターを教えてみたけれど、一度も手にすることなく押入れに眠ったままだ。もしも、このブログを発見したら、娘は押入れからギターを取り出してきて弾いてみたりするだろうか。そういう想像が一人の女の子の落ちかたと重なる。個人的には。
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