2016/05/21

音そのものには意味がないのか?いまだにわからない

岡村靖幸さんの新作『幸福』を友人から教えてもらい最近よく聴いてます。
岡村靖幸さんは50歳になったんですね。
同年代の尾崎豊さんも生きていたら、もう50歳なのかも。
80年代後半から90年前後まで、僕が高校生から22歳ぐらいまでですかね。
一番音楽にのめりこんでいた時期です。岡村靖幸さんについては僕は新曲をチェックしてる程度で大好きな部類ではありませんでした。実は。
僕が音楽の情報源にしていたのは、そうです、渋谷陽一さんのロッキング・オンです。もちろん僕は音楽思想の多くを渋谷陽一さんから影響を受けてまして。ロッキング・オンで取り上げられるか否か、これがチョイスする判断基準。取り上げられないものは産業音楽でありあちら側の忌々しき音楽である、と。岡村靖幸さんは取り上げられていました。なので、とりあえずはチェックしましたが。
そうですね・・なぜ、ハマらなかったかと言いますとそれはですね、当時のトレンディドラマに殺意を抱いていたからです(笑)。トレンディドラマがイメージされるものは、なにからなにまで全て自分の中から排除していました。もちろん、流行曲などは全てNOです。全て。

ちょっと話が逸れるのですが、村上龍さんの小説で『音楽の岸辺』という本があります。今、手元になく僕の記憶と極私的な印象による説明になるので、気になる方はちょっと読んで欲しいのですがそのなかで、
「音そのものに人は感動したりしないんだよ」
というようなセリフがあるんです。
そのセリフは音楽というものを信じていない主人公が発する言葉です。この言葉の意味について僕はかなり考えてきました。何度も何度も。そもそも、感動するとはなんなんだよということも含めて。現時点で僕が着地点としているのは、

人は音楽や歌によって、触発される自分の中に元々備わっている、もしくは持っている情報から「物語」が創出され、その「物語」に感動している、ということではないかと。レコード会社のプロモーション会議なんて、その最たるものでしょ?極端な例ですが。一人のアイドルに物語を持たせるという。ちょっと違う視点で言えば、「この歌を、この歌手を好きであることによる自己演出」というような。その方程式に、自分を当てはめるとこういうことです。
「ロッキング・オンが選ぶ音楽を聴く自分でいたい」と。いやいや、最終的には、実際の音楽を聴いて好きになったり、岡村靖幸さんみたいにハマらなかったりするわけなんですが、しかし、果たして僕は、岡村靖幸さんの「音楽」だけのインプット情報だったらどうなのだろうか。事実、今回の新作は僕は好きになりましたね。まあ、30年前の僕と今の僕では大きく全てが違うのですが。
渋谷陽一さんは大滝詠一さんについて語られたことがあります。
それは、大滝詠一という人は歌の匿名性にこだわった。なぜならば、最大のポップソングというのは「この歌は誰が作った歌なんだろう?」と思われるくらい浸透する歌なんだと。例えば童謡とかですよ。誰の歌なのか、誰がそもそも最初に歌っていたのかなんて誰も知らないけれども、みんなが知っているという。
自分の感性だけで聴く音楽をチョイスする。そういう時代が到来しました。過去も現在も音楽情報は全てがフラットです。特に日本のシステムを憎悪する若者たちは増えていて、「あちら側のマーケティングの仕掛けには乗らない」というスタンスが潜在的にある。あとは、もしかしたら、作り手側にボールは投げれているのかもしれません。音だけで物語を創出するという勝負感。
昔々のクラシックの時代と同じ方法だ。よく考えると。。

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