2016/05/23

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#17



『岡崎京子/戦場のガールズ・ライフ』より④
「80年代」より
ブレード・ランナー的な廃墟のイメージもあって、みんなで「いつ死んでもいいね」とか「核爆弾が落ちてこの世の終わりが来たらステキだろうな」なんて言っていて、組み合わせのゲームの終わりを恐れずに遊ぼうというような感じで楽しんでいたんですね。
(「STURM」5号 1994年11月)
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「家族」より
奇妙な家無き子(家はあっても家は無し)、おかどちがいな孤児(親はいても親は無し)として生きる事。それは今、誰もが余儀無くされている事かも知れません。でも魔法を手に入れるチャンスは充分あります。いくら負けが込んでいても。いつか。そして裸足で歩き出しましょう。サイズの合わない靴でヨタヨタ歩くより、裸足で歩くことを。熱砂の中を、裸足で進んでいった無謀なディートリッヒのように。
(「ハッピィ・ハウス」あとがき 1992年)

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僕のメモ書きは、まだまだ岡崎京子さんとの会話が続く。

自分の感性で発する言葉とはいったい、なんだろう。
「核爆弾が落ちて・・」なんてことは周囲を気にしていては言えないことだろう。
熱砂の中を裸足で進んでいく・・・それはいったい、なんのことだろう。
僕はただの・・というより出来の悪いフツー以下の会社員だ。妻は3匹の猫と一緒に毎日寝起きすることに幸福を感じるフツーの家庭の女性だ。でも、二人だけしか知らない辛辣な経験と出くわした修羅場がある。それは、二人だけの物語だ。それだけでいいと言えば、それだけの生活でいいのだろう。特別な能力ではないかもしれないけれど、妻は太宰治の人間失格を学生の頃読んで、ゲラゲラ笑ったらしい。この物語はそういう笑いを取るのが作家の意図するところだと思っていたと。
なんだろうな。僕が言いたいことは。。。
∞  ∞  ∞
小説も音楽も映画もすべて、更にいえばtwitterのつぶやく言葉もFBにのせる記事も、作者側が発して手離したその時から、その作品も短い言葉のつぶやきも写真も何もかも、それらは全て、受取る側のものになるということだ。俺の作品とかアタシの作品とか、プロもアマも関係ない。芸術家も一般人も。
『そういう考え方があるかもしれないけれど、人それぞれだ』とかいうことではない。
真実。ルール。
正義はいつも臆病者の手のなかに、ということだと思う。
念の為に意味がわからない子供たちの為に付け加えておこう。
臆病者とは読者・リスナー・フォロワーのことです。

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