2016/05/20

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#16

『岡崎京子/戦場のガールズ・ライフ』より③

「寄書き/加藤賢崇」より
プライベートでの彼女は、誰からも愛される、おきゃんでキュートな下町の太陽、といったイメージで、時に漫画の中で描かれた女性の内面の孤独や怖さなどを、感じることはなかった。あれは、想像力なのか、ぼくには見えない京子さん自身を反映させたものだったのか、今もわかりません。割にコミカルな場面で描かれてるキャラが素顔の彼女に近いと思うんですが。
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「寄書き/岸野雄一」より
私は岡崎と会って話して、物怖じしないですべてを相手に伝えてしまう態度や、こちらが話した事を瞬時に完璧に咀嚼して、疑問があったなら容赦なく突っ込んでくる頭の回転の早さにビックリしたものだ。その印象は、岡崎が描くスリッツやPILのジャケの女の子なんかと見事に重なっていた。
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「80年代」より
そんな渋谷の街並を歩くプリンス&プリンセス達を横目で見、ふと見上げたピーカンの青空。それが私にとってのタイクツというものです。
退屈は風景に似ています。もちろん青空にも。
(『退屈が好き』あとがきより 1987年)

その頃よく聞いていたのがヤング・マーブル・ジャイアンツというイギリスのモックスハム兄弟とアリソン・スタットン嬢という何となく奇妙な三角関係を思わせる3人のユニットのレコードで、このヘンテコな3人組のつくりだす、そのあまりのつたないちせつさと、そのあまりにゆうがな何もなさにずいぶん勇気づけられたものです。ぴろぴろのオルガンにベースライン、安っぽいリズム・ボックス・リズムに申し訳程度のギターの音、その上のへたくそでつぶやくようなささやくようなスタットン嬢のうた。世の中には色んな方法があって、こういうやり方でも大丈夫、O・K。ノージャンル、または千の方法。その頃の音楽はそういうことを教えてくれました。感謝しています。
すべてが新鮮ですべて退屈。あたり前のことと、あたり前でないこと。どうでも良いことと、どうでも良くないこと。それがごちゃまぜの日常。あいまいでファジィな毎日、毎日、毎日。
失うものも何もなく、無知モウマイの身の囲い50cm半径で完結して充足している世界。
でも゛何か"がやってくるのを待機している。諦めながら。きっと゛何か"が、と。
でも゛何か"って、何?
(『バージン』あとがきより 1989年)

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オールナイトニッポンという深夜のラジオ放送を小学・中学の頃よく聴いた。月曜日の中島みゆきさんの放送を一番楽しみにしてた。中島みゆきさんの歌が描く世界とDJの中島みゆきさんの落差が子供ながらにも気になって。一度、尾崎豊さんがゲスト出演した回があって。その二人の会話の中で一瞬、中島みゆきさんの暗い影がみえたときがあって。それは、どういう内容の会話をしていたとか、そういうのは覚えてないんだ。でも、間違い無く、頭のなかに中島みゆきさんが暗い表情してるのが浮かんで。僕は子供だったけれでも、ずっと覚えてる記憶。

宇宙の遠い遠い昔から深いところで繋がってるような人。そういう人に出会う。そういう人とだと、会話とかしなくても、黙っていても、同じ空間にいるだけで気持ちがよく・・でも、そういう気持ちよさとか楽しさを表現するには暗くて深い闇を描かなくてはならない、ということですよね?



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