2016/05/11

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#10

辺境ラジオから③
(twitterについて)
日記だと誤解する。
だって朝は頭が痛くて昼には腹が痛くなってそれで昼過ぎにはましになったけど今度は歯が痛くなって・・そんなことを全部日記には書けない。だから「今日は歯の痛い日だった」と書く。ところがTwitterは今は歯が痛い、舌が痛い、その次は小指がむず痒い、とつぶやける。本来、身体というのはコロコロ変わるもの。身体性に近い状態で公開するメディア。

(若いエリート議員について)
言っていることはすっきりしていて頭もいいし、すごく弁も立つしルックスも可愛い。だけど、奥行きがない。
「懐に刃を呑んでいる」とか「底が知れぬ」とか「衣の隙間から鎧が見える」というかんじがしない。
あ、この人には敵わないと空気で感じさせる人ではない。


バブルの頃に「無駄遣い」という言葉はなかった。
80年代に「無駄遣い」は死語。
根本にあったのは「消費活動を通じて自己実現する」という商品イデオロギー。
「自分らしさを演出する」バブルの頃によく言われた。
自分らしいテイストで服を選ぶ、自分らしくあるためには、こういう車に乗って、こういう家に住んで、こういうレストランで、こういうメニューのものを食べて、こういうワインを飲む、みたいな。
自分らしさの表現というのは、どういう商品を選択するかで決まるというのが90年代から後のイデオロギー。

人間の個性は商品選択でしか表現されない、というのは、明らかにある時代に取り憑いた妄想。
ほとんど狂気と紙一重。
1950年代までは、自分らしさというのは、自分の生き方、自分の労働、自分が作り出したものを通じて示すべきものであって、金で買った商品に託せるようなチープなものじゃなかった。金で買えるもので自分の個性や唯一無二性が表象出来るなんて考えていた人間はいなかった。

身の程知らずの消費活動するやつらって、自分の未来を担保に入れてお金借りて、それで自分の収入じゃ買えるはずのないものを買っていた。そういう異常な消費活動を「元気」と呼ぶのはおかしい。あれは元気じゃなくて端的に狂気。


不謹慎だとか言い出す奴がいるでしょう。「被災地に住む人たちの気持ちを考えたら、そんなこと言えないだろう」とか、そういうことを言って、人の発言を遮る人間が僕は大嫌いなんです。
人の発言にケチをつけて回っている奴って、結局は被災者の人たちの苦しみを「ダシ」に使って、それを利用して他人を怒鳴りつけたり、黙らせたりすることにある種の快感や全能感を得ているんだと思う。こういうことがある度に、「弱者の立場を代弁して」と言って検閲的にふるまう人間が現れるけれど、僕はそういう奴がこの世で一番嫌いです。

0 件のコメント: